親を許せるかどうかは、理屈ではないのだ。

 

 こんにちは。
 いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。
 
 連載コラム「毒親から逃げた話」です。
 今回は、毒親体験を語るにあたって初めに言っておかなくてはならないことを書きます。ここに書く内容を「言い訳」や「弁明」と捉える方もいるとは思いますが、大事なことです。

 

 私は生みの親のことが嫌いです。憎んでいます。許すことは絶対にありません。縁を切った今は、自分の幸せのために家庭や生活を守り、努力し邁進していきます。
 それでも、子どもを育てるにはお金もかかるし、親として大変なこともあったのは理解しています。だからこそ私は縁を切ったときの手紙に「私を育てるのにかかったお金を請求してもかまわない。ただし、法的に認められたときのみ支払う」と明記したのです。
 子どもは親を選ぶことはできません。幼少期は大人の手を借りなければ生きることはできません。経済力もないので、どんな親であってもすがるしかないのです。そのことを利用して虐待することは許されないし、幼少期の経験、トラウマは大人になっても生活に支障が出てきます。
 
 私も「産んでもらった、育ててもらったのだから、親を好きにならなければならない」と、好きになるための努力をしました。結果としては好きになろうと努力すればするほど、憎悪の感情が膨れ上がるだけで、私が精神的におかしくなり「早く死にたい」「お金さえ残せば、こいつらの前から消えることができる」と間違った思考になります。

 

 確かに私は親のことが嫌いだし、憎んでもいます。
 許すことはしないし、許してしまったら私の人生が潰れてしまうことが明白です。
 
 それでも、「完全に親が悪だ」とは思っていませんし、「私が完全に正しい」とも思っていません。
 
 「親と縁を切る」という結果になったのは、お互いの生き方や考え方が違ったことが一番の原因です。私からは「ちゃんと話し合って、折り合いをつけていこう」と提案したのですが、親側が罵詈雑言を浴びせるだけで話し合いの場すら設けることができませんでした。
 このことに関しても、私は「お互いの意見を出し合って、話し合いをして折り合いをつけながら、いろんなことを決めていきたい」と考えていて、親側が「話し合いなんて無駄だ。俺の言うことが正しんだ」と考えているだけで、双方の考え方、生き方が一致しなかっただけなのです。
 これで、双方が「自分が正しい」「俺の言うとおりにすればいいんだ」と主張するタイプ同士であれば、「そっちは、そっち」「こっちは、こっち」で好き勝手にしていて、逆にうまくいったかもしれません。
 
 血のつながった親子ではありますが、「性格の不一致」により、縁が切れてしまったのです。

 

 もっと詳しく言えば、私の父と母は2人とも「自分だけが正しくて、間違っているのは周りである」というタイプなので、喧嘩ばかりで会話することが殆どなくても夫婦として成り立っていたのかもしれません。しかし、成り立っていたのは私という調整役がいたからです。
 母が家事をせずに遊び歩いても、家事をする人間がいます。両親の間に会話もなく、遊び歩く母を叱責するのは私の役目で父は見て見ぬふりです。
 遊び歩いて家のお金を使い込む母、それを見て見ぬふりで娘にすべてを押し付ける父が悪に見えるかもしれません。しかし、今になって思うのは、「私があの2人を叱責したり、家事に手を出さなかったり、家業に手を出さなければ、母は私に嫉妬することもなく、もっといい家族になっていたのかもしれない」ということです。
 簡単に言えば「母がやらないのだから、私がやるしかない」と、母の役目に手を出しすぎてしまったのも原因なのかもしれないのです。そういう性分なのでしょうね。
 
 しかし、そうは思うことはあっても「いや、母の性格を考えると私がやらないと”あんた、女なんだからそれくらいできなくてどうすんのよ!”などと言って、無理やり家事をさせられていたかも」とも思います。
 
 「私がいろいろ手を出しすぎてしまったのが、悪いのでは」と悩むこともありましたが、状況は違っても縁を切るという結果には変わりなかったと確信に近いものがあるので、悩む意味がないのかもしれません。

 

 なにが言いたいのかというと、毒親で縁を切っていたとしても「どちらか片方が悪」「特定の誰かが悪い」というわけではなく、「みんなが悪かった」のであり、長い時間をかけて修復不可能なまでになってしまっただけなのです。
 私自身、理屈としてはそう理解していますが、感情論としては「親を許すことは絶対ない」と断言できます。
 

 頭では理解していても、感情がある人間です。
 理屈では納得できないことも、たくさんあります。
 
 親と縁を切るというのは、言葉で説明できる明確な理由がありますが、許すことができるか否かは理屈ではありません。
 
泪-rui-