私の人生経験がすべて妄想だったなら、どんなに幸せなのか。

 

 こんにちは。
 いつもブログを読んでくださり、ありがとうございます。
 
 連載コラム「毒親と縁を切った話」です。
 今回は、「私が生まれたころの話」をさせていただきます。
 
 幼いころは、両親、妹、祖父母、曾祖母、私の7人家族でした。
 当たり前ですが、あまり記憶は残っていないので、両親や人づてに聞いた話になるので本当のことなのかどうかは定かではありませんが、大人になって社会経験を積み、様々な知識を得た上での分析に近い内容になります。
 
 はじめに、父を紹介します。
 父は、土木関連と農業を自営業で営んでおりました。幼少期は貧困家庭で育ち1代で財を成した「バブルの成金」です。とはいっても面倒を見てくれた方から仕事を請け負ったり、頼まれた仕事だけだったので、経営手腕や営業力などは一切ない「ただの棚ぼた成金」です。父自身には会社を経営する能力は一切ありません。
 母と結婚した理由は「押し付けられた」だけであり、恋愛感情は一切なく「自分も適齢期だし」という浅はかな理由です。結婚後に母を紹介した知人から「あんなのを紹介してしまって、本当に申し訳ない」と謝罪されたと言っていました。

 

 次に母を紹介します。
 母の生い立ちは詳しく知りません。ただ、養護施設にいたらしいとか、親戚に引き取られて家政婦のように酷い扱いを受けていたということは聞いています。教養はなく、最近になって「もしかして、母は読み書きができなかったのでは?」と思うようになりました。
 親戚の家で暮らしているときは、お情けで叔母の会社に在籍していたらしいのですが、少しでも嫌なことがあると布団から出てこず、何日も会社を休んでいたのですが叔母が会社に懇願し、なんとか在籍していたらしいです。母自身は「自分は会社に必要とされていて、悪いのは周りだ」と本気で言っていたとのことです。
 そんな親族は、財力もあり、こんな女でもなんとかしてくれるだろうと父に目を付け、母の意志とは関係なく強引に結婚に漕ぎつけさせました。母曰く「いつのまにか結婚することになっていた」らしいです。

 

 これが、私の両親です。
 娘としては、「よくそれで結婚しようと思ったな」と言った感じです。実際、毒親で縁を切っているので、「これも必然だったのかもしれない」と思いますが、愛情の欠片もない結婚です。
 大正時代とかの漫画に出てきそうな話ですが、私の聞き及んだ話によれば事実です。世の中、いろんなことが起こるものですね。
 
 ちなみに、祖父母は結婚に対してかなり不安を覚えていたようです。
 というか、父自身にもかなりの問題があるので「結婚してくれるなら、どうでもいい」という気持ちだったのでしょう。私が幼いころは、祖父母が母と会話している記憶はありませんし、むしろ毎日喧嘩してました。
 
 というか、祖父母も特殊な夫婦だったのですよ。
 祖父はシベリア抑留の経験者であり、戦争の後遺症から働くことができなかったので、祖母が外に働きに出て家計を支えていました。まあ、祖父はシベリア抑留のことで軍事恩給がありましたけどね。祖父は畑を耕し、野菜を作って食卓を支えていました。(祖父母の話は、また別の時にしますね)

 

 祖母の家系は、もともとは江戸時代に大名が宿泊するような家柄だったらしいのですが、没落しています。祖母が生まれたころはとても貧乏で、祖母はかなり苦労したようです。
 ただ、祖母は地頭はよかったし、気も強く「グダグダ言ってないで、これ(お金)で先行投資しろや!」と父に重機(ショベルカー)を新車で買うお金を提供し、父は「そのおかげで、仕事が軌道に乗った」と言っていました。
 自分で言うのもなんですが、「やっぱり私って一番祖母に似てるのかな」と思います。家族の中で憧れる人は誰かと聞かれたら「ばーちゃん(祖母)しかいない」と即答します。
 
 私にとっては優しくて素敵な祖父母だったのですが、両親や親族一同から「それは、おまえ(私)にだけだ」と言われていたので、実際がどうだったのかは知りません。恐らくではありますが、私が幼いころから家事をしない母に代わって家のことをしたり、祖父母の畑を手伝っていたからかもしれません。というか、母がご飯を作ってくれないので夏休みは祖父の畑を手伝って取れたてのトマトとかきゅうりで凌いでました。
 
祖父母は既に他界しております。

 

 次に曾祖母ですね。(故人)
 私が物心がついたころには、既に認知症を患っていました。私が生まれたころから兆候はあったようなのですが、毎日のように私を背負って散歩していたそうです。私が今でも散歩が大好きなのは、この影響かもしれませんね。
 次第に徘徊をするようになりましたが、行く場所は決まっていて家と往復しているだけだし昭和の名残が深い田舎ということもあって「歩き回っている名物おばあちゃん」という感じでしたね。小学生の頃は帰りに曾祖母を見つけると友だちと別れて、一緒に家まで帰ったものです。というか、繰り返すうちに私の帰宅時間に合わせて同じ場所で待っているようになりました。
 ちなみに、曾祖母の結婚事情も当時にしてみたら特殊です。曾祖父(実際は祖父兄弟の長男。祖父は末っ子で養子縁組で家督を継いだ)は、この曾祖母と「どうしても結婚したい」と他の方と婚姻していたのに離縁してまで結婚したそうです。当時は離縁するというのは、かなり特殊であったのに「さすが、私の先祖だ!」と思います。私の我の強さは、遺伝です。

 

 最後に妹の紹介ですが…。
 実を言うと、妹のことをよく知らないのです。
 
 単純に言うと、私は長女であり「跡取り」として可愛がられていました。
 母が家事や育児を放棄しても、曾祖母、祖父母、近所の方たちがかなり面倒を見てくれていたらしいです。というか、毎日近所の方が私をお風呂に入れにきてくれて、誰がお風呂に入れるかと競い合っていたとかいないとか?
 私が生まれた4年後に妹が生まれたのですが、母は妹を祖父母や近所の方から引き離しました。単純に言えば、可愛がられている長女(私)が面白くなかったのでしょう。ゆえに、妹には祖父母や近所の方の悪口や偏見を植え付けて「あいつらは、嫌な奴だ」と洗脳してしまったのです。なので、妹は祖父母のことも近所の方たちのことを毛嫌いするようになってしまいました。
 私は引きはがされることもなく、祖父母も近所の方たちも大好きだったし、母からの洗脳を受ける前に「いい人たちだ」と認識できていたので母のことを「何言ってんだ、この人」くらいにしか思っていませんでした。
 そんなわけで、私は祖父母や周囲から可愛がられる子どもでしたが、妹は違いました。これは妹が悪いのではなく、母が悪口や偏見を植え付けたために起こってしまったことです。

 

 そして、小学生になり中学生になりと成長していく中で母は妹に「お姉ちゃんばかり贔屓されている」、「あんた(妹)は、蔑ろにされている」と言った内容を植え付けていったみたいです。
 
 私自身はなにをしていたかと言うと、「生きていくだけで、手いっぱい」でした。
 大人になった今では妹を気にかけなかったことを申し訳なく思っていますが、なんの力もなく経済力もない、学校でも人間関係がうまくいっていないし、家に帰っても食べるものがあるかわからない、家事や家業も手伝わなくてはならず、勉強もしなくてはいけないなど、自分のことと生きるために手いっぱいの未成年には、妹のことを気にかける余裕はありませんでした。
 今は「妹は母に洗脳されていたんだ」と分析できていますが、当時は「なんだ、こいつは」とか「なんで、ゴミを見るような目で見られなきゃいけないの」と妹に対して負の感情しかありませんでした。
 
 そんなわけで、妹に対しては「嫌な奴」という印象しかありませんが、これは本当の姿ではないと私は思っています。だから、私は妹のことを「まったく知らない」のです。
 ちなみに、もう10年くらいまともに会話していません。主人は電話で何度か話していますが、私に連絡してくることはありません。

 

 全部ではありませんが、私の家族はこんな感じです。
 書けないようなこともあるので、省いていますが…主人には結婚前にすべてを話していますし、それを受け入れてくれた上で結婚しています。
 
 いつも思うのですが…「私の育った環境とか、状況、生い立ちって…どこのドラマなの?」と思います。人に話しても「噓とか妄想でしょ」と一蹴されても仕方ないと思ってます。それでも、事実です。
 私がブログのタイトルに「世の中、いろいろなことがあるよ」と銘打っているのも、自分が体験したことが特殊であり「自分でもフィクションだと思いたいよ!!」と叫びたいからです。

 家族紹介だけで、かなりの量になってしまいましたが…。
 私の毒親体験を書くにあたっては必要なことになるので、書かせていただきました。
 
泪-rui-