絶望したから、求めた自由
生きるとは、なにか。
生きているとは、なにか。
生き続けていくとは、なにか。
「生」という文字は同じなのに、意味は違うものになってしまう。
意味も似ているのかもしれないが、私にはまったく違うものに感じる。
生きているだけで、存在することが許されるのだろうか。
学校に行かなければ、働かなければ社会の中では生きているとは認められない。
人間という生き物が作る社会の中では、なにか「役割」を果たさなければ生きているとは認められないのだ。
「社会」というものは、とても残酷だ。
社会に貢献しなければ生きているとは認めてくれないのに、死ぬことも許してはくれない。
どんなに苦しくても、人生に、人間に、なにもかもに絶望しても生きることを投げ出すことは悪だとされている。
何度も思ったし、切に願った。
死ぬことが許されないのなら、全部なくなってしまえばいい、と。
けれど、それを口にすることも許してはもらえないのだ。
人間と、それが作り出した社会に絶望してしまった私には、この世界で生きることは苦痛でしかないのだ。
そんな私を受け入れてくれた唯一の人間は「あきらめろ」と言った。
彼に言わせれば私は物心がつく前に人間に絶望してしまったらしい。
だから私は人間を好きになることはできないし、人の中で生きていくことが苦痛でしかないらしい。
それまでの私は、人を好きになろうと努力していた。
人間がどういう生き物なのかを勉強し、どうにかして好きになろうとしていた。
自分でも頑張っていたと思う。
まあ、間違った無駄な努力だったのだけど。
「私は人間に絶望している」と自覚したが、心が軽くなって、生きることが楽しくなった。
死ぬことばかりを考えていたのに、自分でも信じられないくらいだ。
絶望を自覚したから気づけたこともあるし、見えてきたこともある。
人間に期待などしていない。
もちろん、自分にも期待はしていない。
誰からも期待されたくない、信用もされたくないし、認めてほしいとも思わない。
だって、私は自由でいたいから。
期待されたら、それに応えなくてはならない。
信用されても、人間という生き物が嫌いな私には応えられない。
認められたら、ずっとそこにいなくてはいけない。
人間に絶望してしまったその瞬間から、私が「自由」を求めていたのだ。
絶望していることに気付いたから、私は自由になれた。
泪-rui-