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第3話 興味がないから、人の顔など覚えられない。⑤

 

④へ

 

 それが誤解だと伝えたい衝動に駆られたが、ただのお客さんに言う必要はない。

「すみません、トイレ借ります」

新しく店内に入ってきた男性が、そう言ってトイレに向かって行った。

「どうぞ、奥になります」

 すでにトイレに向かって行った背中に定型句を述べて、目の前の彼女に笑顔を向けた。

「今日もバイトですか?」

「はい!居酒屋は賄いがあるからいいんですけど、今日は予約が多くて…」

「お酒が絡むお仕事は大変ですよね。友だちが割れたコップでケガしていました」

「たまにありますね~」

 友だちなんていないし、知識から適当に言っただけなのだが辻褄はあったらしい。

「せっかく綺麗な手なのですから、けがしないように気を付けてくださいね」

 これもただの定型句なのだが、彼女は嬉しかったようだ。

 心が痛まないわけではないが、これも接客業と言う職種がためなのだ。

「じゃあ、バイトいってきます!!」

 会計を済ませたお茶を持って、元気に手を振って自動ドアから出て行った。

 ずっとこちらを向いて手を振っているのでドアにぶつかりそうになっていたが、ぶつからずに意気揚々と帰っていった。

 いつも元気で羨ましいなと思いながらも、自分はなれない姿だと感じて虚しくもなるのだ。

「お願いします」

 ドアの向こうに消えていく彼女を見ていたら、先ほどトイレに行った男性が紙パックジュースをレジに置いた。

「すみません、お待たせしました」

 レジを打って会計を済ませて袋に入れて渡したら、男性は頭を下げて出て行った。

 コンビニにトイレを借りに来る人は多い。

 殆どの人は100円程度の商品だけ買っていく。トイレを借りたお礼ということなのだろう。

 中にはトイレだけ借りてそのまま出ていく人もいるから、こういう人は本当に素晴らしいと感動してしまう。

 時計を見たら、そろそろ退勤時間だったので隣のレジに声をかけてから事務所に戻った。

 少しだけ書類をチェックしてからタイムカードを押して家路についた。

 夕焼けが好きだ。明日も頑張ろうと思えるから。

 同時に、明日も生きていこうと決意することができる。

 

次のお話

第4話 理不尽でも仕事なら受け入れる。

 

 

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